記事からわかること
- 王制の意味
- 《コラム》王と皇帝の違い!
- 王の仕事
- 王族の役割
現代の王族とは?
現在、世界には26の王室、皇室が存在している。
そんな、王や王族たちは毎日、事細かに管理された上で、自国の定める法律上こなさなければならないスケジュールを日々こなしている。
その他には、他の王族や大統領などの政治権力者と交流を深めている。
これはいざという時に備えて味方にしたり、敵となる者に対して牽制したりすることが目的であるのと同時に両国の関係を維持したりといった国益を実現すべく、活動している。
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中世ヨーロッパの貴族制度と爵位
王制の意味とその起源
君主制と呼ばれる王制というと多くの場合、国のありとあらゆるもの全てを「王」ただ一人がになっている様を想像する人がいる。
しかし、王制自体は王様が絶対とされるような政治体制ではない。
王様が絶対とされるような政治体制は絶対王政と呼ばれ16世紀〜18世紀に形成された君主と呼ばれる権力者が強大な支配権力を持ち、政治を執り行う体制のことである。
対して「中世ヨーロッパの王」というのは一部族または民族を率いるリーダーであり、その部族や民族を代表する者でしかなかった。
無論、両者とも目的というのは、円滑かつ安定的に国を運営することだった。
しかしながら、よく小説等で見かける王様の命令が絶対とされる場面というのは中世の時代ではほぼ無く、むしろこれらのイメージというのは中世の後、近世に発展した絶対王政による影響が大きい。
中世ヨーロッパの王というのは、部族や民族をまとめあげる代表者でしかなく、王様自体には強大な権力はなく、むしろ王に従う地方有力者(後の貴族)が王よりも権力を有していた。
これは古代の末期にあった異民族の侵略や大国の崩壊など、従来の秩序の崩壊が目に見えてわかるようになった中世という不安定な時代において、人々は地方有力者である諸侯に土地を差し出すことで自身や家族を保護してもらい安全を手に入れようとする。
そうした中で諸侯は人々から土地を貰い、保護を約束するが土地を失った人々を野放しにすることはできないために臣下として軍事奉仕と経済援助を人々に要求する形で人々に元々その人々が持っていた土地を貸し与えるようになった。
これが諸侯と王の間で行われ、王は諸侯を保護し代わりに地方の統治や国における軍事奉仕を担わせた。
この関係が中世を形作り、主君と臣下の関係性が強い封建制へと移行するようになった。
この時は、まだ王は代表者のままであり、主君と臣下は対等な存在だった。
予め契約した範囲内の仕事でしか臣下は動かず、主君が契約を無視したいり破ったりした場合には臣下も同様に契約を破棄することが許された。
そのため、王は自分の領地内でしか権力を振るうことはできなかった。
また、中世の政治も王が独断即決というわけにも行かず、ある程度地方有力者に旨みのある政策が取られることが大きかった。
コラム
「王」と「皇帝」の違い
そもそも「王」というのは上記でも述べたように“民族の長”という意味を持っている。対して、「皇帝」にはそのような意味は存在しない。
「皇帝」には支配者としての意味しかない。つまり、「王」は民族の代表者であり、「皇帝」は民族の代表者たちを束ねて支配する者である。
また、「王」は自身の正統性を証明する手段として血脈が重要視されるのに対して、「皇帝」には支配者たり得るほどの手腕があるかどうかだけが重要視される。
その為、彼の有名なナポレオン・ボナパルトも「王」になることはできずに「皇帝」として即位しフランス帝国を築いた。
これは、まさに彼が自身の正統性を示す血脈を持っていなかったが故の問題だった。
実際に、現在においても王室を持つイギリスでは女王や王にはスチュアート家の血脈が必要と明記されている。
時代とともに変化する王の仕事
それでも王という国家最大の権力者かつ裕福な存在は常に国の中心であり続け、中世の全盛期たる1,000〜1,300年頃には、王の仕事というのは変化し、ある程度の強権を振るえるようになった。
そもそも、シャルル5世は虚弱体質であったために大きな負担となるような業務をこなすことはできなかった。
とはいえ、時代は中世であり、常に外国との戦争、国内の内乱が頻発するような時代において一国の主としての業務は非常に厳しかった。
しかし、シャルル5世の生活は体に負担があまりかからず、長期的に続けられるように仕事と休息がバランスよく取れるように工夫が施されていた。
そのため、朝食前の午前中には政府高官との面談や集会、貴族や聖職者との会合などの移動が必要な仕事を行い、朝食後は宮廷で外交官、貴族、自国や他国の騎士たちと会談して、自国や周辺諸国における話題となりそうな事件や戦争の詳細を聞いたりした。
その他にも、官僚から報告される自国の課題や問題に対しての解決策や打開策を決めて取り掛かったり、手紙などのやりとりなども行うことがあった。
午後からは、疲れを癒すために休息をとり、夕方から再び活動して、仲間たちや商人たちと会合し、宝石や宝物の自慢合戦や商人が持ち込んでくる異国の物を受け取ったり、鑑定したりと比較的、軽めの仕事を行うことが多かった。
また、夏には家族と散歩したり、宮廷婦人たちと子供の話をしたり、冬には聖書を読むなど読書や勉強に励んだりした。
夕食後は伯爵や騎士たちなどと一緒に談笑したり娯楽を楽しんだりして一日を過ごしたりした。
王族の役割
しかし、時代とともに王国を束ねる王の地位は変化していった。
そんな王は、強権を振りかざすだけでなく、正当な血統を継承し国の秩序を守る役割があり、武力を持つ人が力で王位に就けば、その国は常に外患内患に悩まされることになる。
そこで、人々はそうならないように王位に就くことの出来る人を血筋で限定して、全く関係のない人が王位を狙うこと未然に防止するようになった。
これが後に王の血筋が政治原則となり、王位の正統性を証明する唯一無二の証拠とした。
故に王は子作りに励み王位継承を間断なく進めることになった。
そして、王の相手にも同様に正統性を求めたため、王妃は他国の王族に限定され正統な血筋が維持されることを人々は望んだ。
ただ、王位継承権を持つことができるのは王妃の子だけという価値観が子供ができずに後継者がいないという事態を度々、引き起こした。
当時のヨーロッパでは公妾制が採用されていたために、子供が生まれても継承権を持つのは王妃の子供だけだったためにヨーロッパの王室は女系継承を認めざるを得なくなり、今に存在する女王や女帝が生まれるようになった。
また、王子には国を継承するために次期国王としての勇敢さ、知性、慈悲の心などを証明するために幾多の試練を乗り越えなければならなかった。
例えば、王子は戦争には必ず参加し、敵軍の将を捕らえるなどの功績を挙げなければならず、時には敵に対しても慈悲の心を見せなければならなかった。
これは、国に住む民を時に勇気づけたりする必要があり、また駆り立てたりする必要があったからであった。
姫も同様に、国のために他国に嫁いだりして国の安定を図り、他国との同盟関係を強めたりして勢力を強化したりする他、姫として常に民に笑顔を向けて安心させたりしなければならなかった。
まとめ
中世の王は、貴族の第一人者にすぎず、専制君主や絶対王政のような絶対的なものではなかった。
また、王や王族の役割は国における全てであり、王や王族は巨大な影響力を自国他国問わずに発揮できた。
特に中世において王は、国を継承する際には正統性を証明する必要があり、正統性を証明できなければ王位に就くことは許されなかった。