
記事からわかること
- 中世ヨーロッパの道路状態とは?
- 中世ヨーロッパの道路の維持費とは?
- 中世ヨーロッパの道路とは?
Contents
中世ヨーロッパの道路は『金のなる木』だった!
中世ヨーロッパの道路は、王侯貴族にとってかなり重要な「金のなる木」だった。
そもそも、中世という時代は、地図もコンパスはなく、村や都市の外に出ることは当時としてはかなり危険とされた。
盗賊に遭うリスクや道に迷うリスク、熊や狼などの野生動物に遭遇することもあり得る中で、村や都市の外の世界は危険に満ちていた。
だからこそ、人々は安全な交通路を求めていた。
しかし、ローマ時代のローマ街道は廃れつつある中で、安全な交通路を管理・維持できるのは王侯貴族などの一部の支配者層のみ。
そのため、王侯貴族は私財を投じて安全な交通路となる街道を設けた。
平時には関所などによってお金を生み出し、戦時には迅速な軍の派遣を可能とする道路は王侯貴族にとって重要な設備となったためである。
このように、自領に入ってくるヒト・お金・モノ・情報の動脈となる道路を支配することは中世ヨーロッパの王侯貴族にとって、非常に重要で優先度の高い事業だった。
そして、平時にはそんな道路にある関所から徴収できる都市関税などの税収は王侯貴族にとって、所得の柱となるぐらい貴重だった。
とはいえ、中世ヨーロッパの道路も維持費はかかった。
例えば、盗賊が近くに住み着いた場合、道路が使われないこともあったため、討伐費用が発生した。
また、河川を跨ぐようにある橋が増水によって崩落していた場合にはその修理費用も発生した。
このように、中世ヨーロッパの道路はヒト・お金・モノ・情報をもたらすのと同時に、常時メンテナンスが必要な設備でもあった。
中世ヨーロッパの道路はローマ街道からの断絶と再構築から始まった
中世ヨーロッパの道路は劣悪というのは、多くの人が知っているところ。
古代ローマ時代では「すべての道はローマに通ず」という言葉通りにかなり整備されていたにもかかわらず、時代が進んだ中世ではなぜ、そんな道路が劣悪とされたのか?
その根本的な理由としては、ローマ街道の技術が継承されなかったことと、継承されたとしても費用が高すぎて話にならなかったためだった。
実際にローマ街道は、かなり精巧に作られていた。
標準的なローマ街道の道幅は2台の馬車(当時の馬車)が生き違えるほどの車道幅として4メートル。
両脇には3メートルの歩道があった。
ローマ街道の車道部分は最大で2メートル掘り起こされており、三層構造で作られていた。
最下層には手の平大の石が置かれ、中層にはコンクリート片や砕石などの中ぐらいの石が置かれた。
一番上には粘土と砂利を混ぜた物やセメントを配置し、路面となる表層石で固めた。
表層石は重量のある分厚い石で亀甲形に組み合わせ道路の安定性を高めた。
また、道路は中央部が少し膨らむよう勾配が施され、排水が三層路盤で完了するように設計されていた。
これらを一度に整備するのは中世ヨーロッパとしては、かなり骨が折れる仕事だった。
実際に、このレベルの道路舗装を1km分を行うだけでいくつかの村の年間の収益が吹き飛ぶような物だった。
そうなると費用対効果的に割に合わなかった王侯貴族は、ローマ街道をメンテナンスすることなく、現状のまま使うほかなかった。
しかし、ローマ街道もメンテナンスされないと時を追うごとに荒廃していく。
石畳は草に覆われ、橋は老朽化し、湿地帯では道が沈んでいった。
その結果として、中世初期では未整備な道路が多くなり、ローマ街道は廃れていくようになった。
だが、安全な道路への需要がなくなったわけではないので、中世初期のヨーロッパの道路というのは「踏みならされた小道」が主体となった。
このような踏みならされた小道では、雨が降っている日やその翌日には道自体が泥沼のようになり、馬車の車輪がはまって動けなくなることもあった。
馬車での移動は難しくなった。
踏みなされた道が主体となった中世初期のヨーロッパでは、雨の日で道が泥濘んでくると馬車や荷車がハマるようになって移動が困難となった。
そこで、そうならないように人々は徒歩での移動が主体となった。
《関連記事》中世ヨーロッパの馬車とは?
教会や王侯貴族による私的整備の広がりで整備されていった中世ヨーロッパの道路
しかし、すべての道が踏みならされた小道になったわけではなく、主な巡礼に使う道や王侯貴族が自領内を管理する都合上使っていた道などの重要なルートは独自に整備されていった。
特に中世ヨーロッパでは巡礼者のために橋や宿場を整備した例は各地でも多く見られる。
王侯貴族たちも自分たちの利益となる重要なルートには惜しみなく、私財を投じた。
これが徐々に広がり、国全体である程度の道路が整備されていくようになった。
また、道路の整備は王侯貴族の思惑もあった。
というのも、王侯貴族は支配下にある城や各地に点在する領地などにアクセスしやすいように整備することで、迅速な行動を取れるようにしたためだった。
それほど王侯貴族は道路の重要性を理解してはいた。
ただ、現実としてローマ街道を新設するほどではなかった。
中世ヨーロッパの道路の維持費とは?
中世ヨーロッパにおいて、基本的に道路自体にはあまり維持費はかかっていない。
というのも、基本的に踏みならされた小道もしくは簡易な砂利道しかなかったためである。
とはいえ、それでも維持費というのは発生した。
例えば、領主が整備した道路に面して関所などを設けた場合、関所で働く兵士の食費や薪代はすべて領主持ちだったためである。
さらに、後述する13世紀のイギリスの法律のように、脇道を整備して盗賊や追い剥ぎが隠れられる場所を事前に排除する事が必要なこともあった。
その作業もすべてタダで行われたわけではなく、人を使って処理していたので維持費は存在した。
では、具体的にいくら発生したのかというと、あくまでも想像の域を出ないものの以下のような費用がかかったのではないかと考えられる。
仮に1kmの道を想定すると以下のように費用は発生する。
一般労働者の日給:1ペニー(現代日本円で約3,000〜4,000円ほど)
木こりなどの専門労働者の日給:2〜3ペニー(現代日本円で約6,000〜9,000円ほど)
中世の記録から平均すると伐採量に応じて作業できるのは以下の通り。
・灌木・雑木の除去:1人で1日に500〜1,000㎡
・密林(直径15〜25cm級):1人で1日に200〜400㎡
今回の想定、伐採量は薮や雑木〜小規模林の整備レベルなので、1人1日あたり約800㎡と推定。
1kmの道路に対して60mの除去面積なので、
道路に沿って両脇60m=120m
道路1km=1,000m
なので、合計面積120,000㎡(12ヘクタール)
必要日数と人数から費用を算出すると
120,000㎡ ÷ 800㎡=150人日
必要人数×日数
30人で行うと5日間。
50人で行うと3日間。
100人で行うと1.5日のほぼ2日間。
労働者の日当と人数分のコストは、
一般労働者の日給:1ペニー(現代日本円で約3,000〜4,000円ほど)
木こりなどの専門労働者の日給:2〜3ペニー(現代日本円で約6,000〜9,000円ほど)
なので、仮に150人で行うと平均して1日2ペニーの費用がかかると想定して
300ペニー分が1日で発生するコストとなる。
この300ペニーは1.25ポンドと言えるので、日本円で約90万〜120万円相当となる。
また、伐採後の藪や使えない資源の焼却処分などがあるため、追加で0.3〜0.5ポンド分は処理だけで発生する。
無論、薪として使える木材の仕分けや木材運搬用の馬車費用など含めての処理で追加費用が発生する。
これらを総じて考えた場合、道路のメンテナンス費用は約1.5〜1.8ポンド(現代日本円にして約120〜170万円ほど)の費用が発生した。
ただし、実際に王侯貴族はこの費用を周辺地域に住む人々の荷役によって無償労働とさせたので、支出としてはもっと少なかったと言える。
しかし、関所での兵の滞在費や馬の配置などで食費や薪代、飼葉代などは発生したのでこれとほぼ同等の費用がほぼ出ていたと考えても問題ないと言える。
中世ヨーロッパの道路は領主にとって貴重な財源だった!
そんな中世ヨーロッパの道路は、王侯貴族にとってまさに「金のなる木」だった。
なぜならば、中世ヨーロッパでは地図もなければコンパスもない。
村や都市の外に出れば、盗賊や追い剥ぎ、熊や狼といった危険に満ちた世界の中で、各地を結ぶ道路は重要な指針となったためである。
そのため、安全に目的地に行くためにはどうしても王侯貴族の整備した道路、もしくはその道路に接続するための小道を進んで使うことが当時の人々にとって最良の選択肢だった。
そして、この選択肢こそが王侯貴族に対して富をもたらせることになる。
というのも、こうした安全な道路に対して王侯貴族は関所を設けることで、ヒト・お金・モノ・情報を制限して税を課すことができたためだった。
実際に13世紀のイギリスには『街道にそった藪などの視界を遮るものは両脇60メートルほど焼き払って空き地にせよ』という法律があったほどである。
これらは、街道を襲う盗賊や追い剥ぎの隠れられる場所をなくすために、施行された法律であった。
このように、王侯貴族によって主要な街道としての中世ヨーロッパの道路は、比較的安全と言えた。
そして、このような安全な道路を使うために人々は税は関所などで関税や通行税を支払うことを余儀なくされた。
無論、盗賊などは山道を介して、領地を跨いでの犯罪行為をしていたものの、山には熊や狼といった危険で獰猛な動物がいた。
そのため盗賊が熊や狼の被害に遭っても、王侯貴族やその私兵が助けてくれることはなかった。
このリスクを背負っても税を支払わずに他領へ行くことはできたが、多くの人はそのようなリスクを避けていった。
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中世ヨーロッパの道路は河川には叶わなかった背景とは?
やがて、道路が整備されていくと、商業が活発になっていく。
これは安全な道路による利便性が商人の商売を加速させ、儲ける事ができるようになったためである。
しかし、大量の商品を運ぶには陸路ではコストが合わなかった。
そこで、商人は海や河川を介してより効率よく大量の商品を遠方に運んでいった。
実際に、当時の荷車で運べる量よりもロングシップなどの船で運べる量の方が若干多かった。
特に重くかさばるものの輸送に対して陸路よりも河川や海路がコスパが良かった。
また、船の方が安全で速かったので、物資輸送の際には道路ではなく、河川や海路を利用した行き来が活発となった。
そして、このような事情から中世ヨーロッパでは徐々に港の重要性が増していくことになる。
港があればより遠方から速く多くの物資を運ぶことも受け入れることもできた。
しかし、この発想の多くは商人にとどまり、王侯貴族の大半は従来の封建社会による収益源を主体としていた。
そのため、良港でない限りは港の整備は行われなかった。
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まとめ:中世ヨーロッパの道路は手間の焼ける金の木だった!
中世ヨーロッパでは、整備された道路をもつことは、軍事的にも経済的にも便利ではあった。
しかし、その維持費は膨大で、安全面まで考慮すると当時の王侯貴族といえども苦労させられた。
それでも王侯貴族にとって整備された道路を持つことは「平時では金を生み出し、戦時では軍の派遣を迅速にする」ほどの価値があったので決して無碍にはできなかった。
また、主要な道路には安全性と税収の面から関所や砦などを設けることで、地域の支配を確立する考えはあったので、決して当時の王侯貴族が無頓着であったがために、ローマ街道のようなインフラを整備しなかったわけではない。
むしろ、ローマ街道のような道路が欲しかったものの、個別で維持できるほどの資金を有さなかったために、必要最低限の道路整備を行ったのが正しい。
その果てにローマ街道は地方では廃れていくことになる。
そして、王侯貴族たちはそんな主要な道路を金の木として整備して自領の発展に貢献させた。
後の時代に、より商業が発展していくと今度は河川や海路を主体とした遠方との取引が盛んとなり、道路から港へと徐々に需要が変化してきくことになった。
だが、道路があることで、迷うことなく比較的安全に目的地に辿りつけるようになったので、決して無駄にはならなかった。