Contents
記事からわかること
- 中世ヨーロッパの船とその利用
- 《コラム》オレロン海法
- 損害保険と株式の誕生
- 帆船の速度と積載量
中世ヨーロッパの交通
中世ヨーロッパの交通事情といえば、『すべての道はローマに通ず』というように“陸路”がメインだった。
しかし、移動には時間が掛かる上に盗賊や狼などに襲われる危険性があった。
そのため、一部の商人は武装したり、傭兵などを雇い自己防衛を行っていた。
陸の馬車についてはこちらから。
中世ヨーロッパの移動手段としての馬車 帆船と並んで中世ヨーロッパな世界観で有名な「馬車」。 海の帆船に陸の馬車。 それはまさに、中世の人々にとって唯一とも言える運搬手段であり、中世社会を陰から支えてき ... 続きを見る
中世ヨーロッパの交通事情 “馬車篇”
中世ヨーロッパの帆船とは?
そもそも中世ヨーロッパの船と言われてパッと思いつくのは帆船だ。しかし、帆船というのは時代と地域で異なる。
主なものとしては、
- 南欧系……ガレー船、キャラベル船
- 北欧系……バイキングのロングシップ、コグ船
の2種類がある。
また、都市が強い力を持つ時代においては対波性と操作性の良い船、コグ船と曲がりくねった河川などで使えるフルクを用いた。
こういった点からも、帆船には主に2つ流派ともいうべきものがあった。
地中海系のガレー船は、地中海の風が弱い場所でも安定して移動できるように帆が受ける風力の他に、人力でも動かせるために左右に櫂が装備されていた。
こういった特性から、地中海に面した国々はガレー船を軍船や商船としても利用し、地中海全体で広く普及した。
しかし、北欧系の船というのは風力と人力を併用する船であり、バイキングのロングシップはまさに北欧系の軍船だった。
ロングシップは、軍事用の軽船で深水の浅い河上でも航海が可能だった。
それ故に、バイキングというのは北欧の農民や都市民の間で酷く恐れられた。
コグ船やフルクなども北欧系の船が15世紀に近づくにつれて、地中海系の船と北欧系の船は1つにまとめられ、新たに誕生したのがスペインで開発されたヨーロッパ初の外洋航行船の『キャラベル船』が登場した。
中世ヨーロッパにおける船の利用
商人は古来より“自分の船に商品を積み込んで、自分で操舵して運ぶ”方法で活動をしていた。しかし、実際には船と積み荷の共同者である商人たちが皆乗り込むことの方が多かった。
これらが、やがて「船主」と「荷主」が一致しないことが主流となり、『船主ではない船長(航海指揮者)が雇われる』形式へと変化した。
こうして、発展した船長というのは商品や貨物の輸送のみならず、目的地での商品売買も行わねばならなかった。
とはいえ、荷主と船長含めた船員は組合関係であり、重要な航海規則に関しては、荷主、船長、船員の三者で話し合われて決められた。
組合関係は各地の海法によって異なるものの、船員や船長、荷主などの取り分に関してはどこもある程度決められていた。
例えば、ハンブルク船舶法では「場合により、船員の賃金は荷主から支払われる」ものであり、カタリューニャ法律慣例集では「船員の賃金というのは、“荷積みは賃金の母なり”の原則に基づき変動するもの」とされた。
これは船員の賃金は船主が請け負った貨物の輸送が正確に届けられた場合にのみ支払われ、額は積荷の増減とともに変動べきものであるという考えからきている。
しかし、イタリアでは船員が利益配分を与えられずに一定の賃金で船主に雇われる方式が始まっており、同じカタルーニャ法律慣例集影響下でも雇用契約で働いた船員なども登場していた。
その他にも海法や船舶法によって作業や利益配分の仕方が決められていた。
リューベック船舶法では、見習い船員も取引に参加でき、船主が荷積みに関して能力不足であれば船長が代わりに荷積みを代行することができた。
12世紀のイタリア都市アマルフィでは、一般形式として船主と船員は積荷出資者とともに共同の利益で運行するコロンナ形式が取られた。
一人では船は操作できないからこそ、きっちりと決めて船を動かしていたんだ。まさに、一心同体ってやつだね。
コラム
オレロン海法
海運業の発達とともに海港都市を中心に発展した海商法は、当時の慣習を含めたフランスの西海岸オレロン島の海事裁判所の判例をまとめ上げ成立した判例法。「オレロン判決」「オレロン巻物」とも称される。
後にフランスだけにとどまらず全ヨーロッパで広く使われ、ドイツではビスビー海法へ継承され、イギリスでは海法の起源ともなった。
また、オレロン海法と並んで地中海沿岸地方の慣習法とバルセルナ海事裁判所の判例をまとめた13世紀のコンソラート・デル・マーレ。そして、ハンザ同盟の海事慣習法をまとめたウィスビー海法の3つは中世の三大海法と呼ばれている。
定期船
中世の人々にとって“船”というのは、陸路での移動よりも早い乗り物だった。
海や川、風などが安定していれば非常に快適に過ごせるばかりか、危険はほぼ無いに等しくその上目的地にも早く着くことができた。
こうした、利便性を最大限に使ったのが“定期船”だ。
定期船は積載する荷物の量が大きく重たければ値段は高く、軽くて小さい荷物の値段は安かった。
だが、特に注目するべきことは、定期船は特定の場所における人の流通を加速させることになるということだった。
陸路より安全で早い、船という移動手段は物流に留まらず、通信までも加速させた。
しかし、中世の定期船は値段が高く、利用者は大商人か貴族など限られたものだった。
一般の庶民と呼ばれる階級が定期船に乗るには自主的に船を作り、運航するか大金を貯めて乗るしか方法がなかった。
中世ヨーロッパの商船
船と商人はある意味切っても切れない関係にある。それは、『貿易』が存在するためだ。
ハイリスクハイリターンな『貿易』だが、それを支えたのが商人たちが造らせた商船だ。
商船にはより早く荷物を届けるべく速さとより多くの荷物を運べる積載量が何より求められた。
そのため、12世紀頃からバルト海他北海などの北欧地域でコグ船と呼ばれる帆船が広く使われた。
コグ船は船員が少なくても操船することができ、運行費用を抑えることができるなどのメリットがあるが、同時に風上に向かって帆走することができないなどのデメリットもあった。
一方、南欧ではガレー船にとって変わるキャラベル船が誕生した。
キャラベル船は従来の航行速度を重視した正方形の帆ではなく、小回りを重視した地中海用のラテン帆を使用しているために浅瀬では迅速に行動し、風を自由自在に掴むことが可能であり、操作性に非常に優れていたことが言える。
他にも、キャラベル船は当時の人々が求めた経済性、速度、操舵性、汎用性を持っており、当時の時代に置いて最も優れた帆船の一つとして確固たる地位を築いた。
そんな船の進化だが、大型化したことで増えた積載量に加えて、風という人力よりも速い速度を出すことができる帆を融合させて誕生した“帆船”はその後の世界に大きな影響を与えた。
それは後の大航海時代へとつながる航海術の蓄積と商圏の拡大だった。
そのため、商人たちは競って船を造船しては所有し、未だ見たこともない商品を手に入れるべく『貿易』を行った。
船で得られるリターンは大きいものだが、リターンと同じ分だけリスクも高かった。事実、海に出ることは中世の時代ではまだ危険であり、死と隣合わせだった。
そのため、時代とともに長距離航海を行う船には幾多の商人がお金を出し合って運用していく方式へとシフトし、それが現在にも身近に存在する損害保険の誕生と株式の誕生を引き起こしたのだ。
軍船
昔の軍艦といえば多くは戦列艦のような大砲を大量に積み込んだ巨大な帆船を思い浮かべるが、実際にはそうではない。
例えば、有名なガレオン船は16世紀半ばから存在していた。つまり、中世の時代には存在しなかったのだ。
中世の軍船はまだ大量に大砲を積めることのできるだけのものではなく、むしろ商用として使われていたコグ船やキャベル船を使用した。そのため、軍船というものはなかったのだ。
また、当時の海戦は未だガレー船で行うような戦闘(衝角戦術と移乗攻撃)が主流であり、16世紀半ばに登場した漕ぎ手が必要のなく、複数の大砲を並べることが可能なガレオン船などによって初めて、大砲の一斉射撃で勝敗が決まる海戦形式へと変化していった。
帆船の速度
帆船の移動速度と輸送能力は、陸上での馬車をはるかに凌駕していた。
実際に、陸上での輸送速度は1日8kmを超えることはほぼなかったのに対して、船での輸送速度は、1日で28〜32km(直線であれば、38〜51km)を輸送することができた。
しかし、一方で当時の船には問題があった。それは積載力の優れた大型船を作る技術がまだ乏しかったと言うことだ。
15世紀のロンドンでは120トンを超える積載力を持つ大型船を4隻しか持っていなかった。
また、海上交易で栄えたハンザ同盟の船も通常は200〜250トンを超えるクラスの船は所有するようなことはなく、その価格も金貨3000マルク(現代価格で14億4000万円)を超えるようなことはなかった。
他にも、ドイツ騎士団の支配下だったプロイセンの諸都市では400トン以上の積載力を持つ大型船も一部では造船されたが、船が大きすぎるために多くの港には入港できなかった。
イタリアでは1000〜1500人を収容してなお250トンを積載できる大型船やカタルーニャでは420〜630トンもの積載量を誇る大型船が存在していた。
だが、どの大型船も早くて中世後期、遅くても大航海時代が始まるまでには存在し始めていた。
帆船での旅行や移動
帆船での旅行や移動は一言で言えば苦難に満ち満ちていた。
まず、四六時中ギーギーと船が軋む音、波が船腹にあたる音、ネズミなどの船に紛れた動物の動き回る音などが終始響いていた。
また、船酔いだけでなく船内に立ち込める悪臭も吐き気を催すなどの問題点もあった。
これらの悪臭は、船底に溜まった汚水や船に紛れ込んだネズミなどの糞尿が原因であることが多かった。
また、飲料水も数ヶ月の航海ともなればいかに保存されていたとは言え、腐りかけており、喉の渇きを癒すのにはかなりの勇気が必要とされた。また、飲料水の枯渇などで喉の渇きを癒せなかった船員たちは酷く苦しみながら死ぬことが多々あった。
船旅の途中で嵐などに会えば、船内に急いで隠れては祈るほかなかった。これは、船員たちが嵐に立ち向かう術がなかったことが大きかった。
そのため、船での旅は決して優雅なものではなく、むしろ最悪なものであった。
まとめ
中世の時代において帆船は発展し、後の大航海時代の礎を築く事になる基盤を整え、当時の人々に対する大きな変化を与えた。
しかし、中世の帆船は常に危険と隣り合わせであり、特に長距離の航海には死を覚悟しなければとても乗ることはできなかった。
その恐怖を乗り越えてなおも未知なる世界や財宝を求めたのが後の時代に登場する海賊や冒険家たちだった。